| 眠り続けた八月 |
| このエッセイは、遠藤周作さんの「周作クラブ」という会報誌に掲載されたものです。ちょっと重苦しい内容ですが、奥様や、読んだ方からもお手紙をいただいたりして、私にとっては忘れることのできないものとなりました。 |
一月に海を見たことがなかった。小高い丘の上から見る外海の海は、夏の海岸の賑やかな波の動きはなく、天に続く空とこの世に続く海とを隔てる水平線と、音の無いなめらかな水面に、自然な配列で島々が点在しているだけだった。本当なら、母を連れていきたかった。けれども、無理をして母を立たせても、母の目にはぼんやりとした世界しか見えなかっただろう。右目を失明して、今は残った左眼のかすかな視力で大きな拡大鏡を使い、母は遠藤周作先生の本を読む。同じ本を何度でも繰り返し読んでいる。そして、「私の孤独は、遠藤周作さんの本で癒される」と言いつづけていた。その言葉は、娘の私には複雑に響いた。孫もいて私と暮らしていても、母は孤独だと言う。けれども、母が本に顔を近づけて熱心に読む姿は、私を外海町の遠藤周作文学館へと向かわせるほどの気迫があった。海を見ながら、母の孤独を思い、海に沈められた切支丹を思い、遠藤先生の創作の力を思った。 東京へ戻った夜、羽田では雪が降り始めていて、母への土産話や文学館で購入した様々なものを抱えて家に着いた私を待っていたのは、友人の妹さんが自ら命を絶ったという思いもかけない訃報だった。 二十七歳だった彼女は、やさしいご主人と幼い子供がいながら、「わたしの欲しいものはこの世にはないのかもしれない」「また、ひとりになっちゃった」という言葉をひっそりと残していた。友人は、その妹さんのことを「みやちゃん」と呼んでいたが、これは彼女の本名ではない。友人自らも自分でつけた名前を名乗り、親のつけた名前を捨てていた。みやちゃんは、十代から心の飢餓を抱え、過食症になり、何度か自傷を繰り返していた。お棺に入れられて、やっと母親や父親に泣きながら頭や顔を撫でてもらい、名前を呼んでもらったそうだ。これこそが、みやちゃんが何度も自殺を試みるたびに頭に描いていた情景だった。孤独というのは一体何なのだろう。人を死に至らしめるほどの病の一種なのだろうか、と私はその時思った。 それ以来、遠藤周作文学館、母の孤独、そしてみやちゃんの死という一つ一つの点は、線でつながれたように私の心の中に残り、いつも懸案事項のように点滅するようになっていた。しかし、それは私自身も孤独という病に冒されていたからこそ、共に苦しみを感じたのだった。何がきっかけというわけではない。梅雨のない六月からいきなり真夏になった頃から、少しずつ私の中のバランスが崩れはじめていた。世界から色が消え、音が心に突き刺さるようになり、人が群れに見えて怖さを感じるようになってきた。眠れない日々が続き、些細なことでも涙を流す私を見て、ある人が病院に行くように薦めてくれた。死や破壊へ向かうタナトスの衝動に次第に取り付かれていたのである。クリニックで薬をもらい、八月は昼も夜も薬の力で闇の中に落ちるように眠った。「何も考えるな」という医者の忠告を無視して、眠っている時以外の短い時間、私は考えていた。孤独に病むということを、そして、遠藤先生の病との闘いの人生を…。それは、「死」を意識し、人間にとって最も大きな恐怖と向き合う日々だったに違いない。「文学と想像力」という作品の中に、サドやジャン・ジュネのような牢獄作家や、プルーストのように生涯の大半を病室で送った作家についてふれておられるが、遠藤先生ご自身もまさに、「病む身体」という牢獄に居たからこそ見えたものがあるのではないだろうか。私の場合、癒えていく過程というのは何とも不思議だった。色が鮮明に見えはじめ、音楽が心地よく感じられ、映画やテレビの美しい男達が目にはいるようになってきた。タナトスがエロス(生きることへの衝動)にぐるんとひっくり返ったのだ。死を見つめると、その裏側にある生が真に輝くと聞いたことがある。人は病むと出来ることが限られ、その代わりに何かが研ぎ澄まされる。遠藤文学において、病むということは、魂を磨き、霊位を上げるための浄化作用の一つとさえ思える。「病む力」によって生み出された数々の作品は、母のような人々の魂を救う。 悪趣味かもしれないが、私は遠藤先生が日記にその苦しみを書かれている所を読むとほっとする。あれほどの偉大な作家ですら、孤独な夜に目を覚まし、苦しみながら創作を続けていたことを知る時、私は癒され、心底励まされる。「あなたは弱く、時にはずるく情けない。けれども、少なくとも私にはその孤独の痛みや辛さはよくわかるよ」と、そんな声が聞こえるような気がするのだ。 |