| 荒ぶる魂、鎮めたまへ |
| 陰陽師などというものは、歴史の教科書の中にしか存在しないものだと思っていた。しかし、ある時「現代の陰陽師」という人の番組を見た。平安の頃のような装束を身に着けた姿は、なかなかに見目麗しく、ある家族の元へ悪霊祓いに出向くのだが、お祓いが始まってからの、この家の主婦の苦しみようが凄まじい。顔にぼかしが入っているにもかかわらず、眼を見開いて睨みつけているのがわかる。いまにも襲いかからんばかりに、虚空を掴んで曲がっている指は、まさに妖怪のそれで、恨めしい、苦しい、という怨念が伝わってくる。陰陽師は、次第に悪霊や怨霊の正体を突き止めていくが、その中に、なんとこの主婦の夫が家を出る原因となった女性の生霊があるというのだ。 生霊といえば、「源氏物語」の六条御息所である。光源氏が夕顔の元に行くと、六条御息所の生霊が夕顔を苦しめる。「昔の話だ。それも物語の中の…」と、私は思っていた。しかし、この番組を見ながらふと、あることを思い出したのだ。母が満州で親戚の世話になっていた頃、ずいぶんと邪険に扱われたらしい。母は別に呪ったつもりも何もないと言うが、後にその家族の息子さんは亡くなり、別の息子さんは脊髄に菌が入ってせむしになったというのだ。「私に意地悪をした人は皆ろくな目にあっていない」などと、日ごろ穏やかな母の心の奥に潜む般若のような怒りが見え隠れする。繰り返される思い出話の中で母の恨みは生霊となって、その人たちの所へ飛んで行ったのだろうか。 生霊などというとおどろおどろしいが、私たち人間は誰でも怒り、嫉妬、憎しみ、悲しみ、喜び、やさしさなど、様々な感情がある。これらの中で最も強いのは怒りだろう。怒りを持っていない人はいない。生きていれば、必ず何らかの形で私たちは怒りを持たないでは過ごせないのだ。恨めしく、苦しい思いは、波動となって相手に伝わる。時には自分自身に対して怒りを持つことだってある。怒りを持つということは、本人もつらいことだ。しかし、残念なことに人間にとって「許す」という行為はとても難しい。生霊というと、妖しい古代の話のように聞こえるが、誰でも自分の中を覗いてみると、そこには自分にも御しがたい荒ぶる魂があるのではないだろうか。古代の昔から、一番厄介なのは悪霊よりも生霊で、荒ぶる魂は、「許す」という最も難しい行為でしか鎮めることはできないのかもしれない。それも、「自分を許す」ということから始めなければ、なかなか人を許すことはできない。 昔も今も、癒しと称して香やアロマオイルを炊き、音楽を聴いたりする。考えてみれば、本を読んだり絵や映画を見ることも、お酒を飲んだりすることも、まるで陰陽師が霊を鎮めるために供えた供物や祝詞のように、自らを癒す儀式のように思えてくる。視、聴、嗅、味、触、と五感を楽しませ、和ませるものが、こんなにも必要とされるということは、人間は自然に自らの荒ぶる魂を鎮めているのかもしれない。 あの九月十一日の夜、ニュース速報のすぐあとに、報道番組に切り替わったすべてのチャンネルで、二つの高層ビルが今まさに崩壊していく光景が世界中に映し出された。その瞬間、亡くなった人たちの悲しみ、不安、怒り、恐怖の波動が世界中を駆けめぐった。怒りと報復に燃えるアメリカ、一方で険しい地形と自然の厳しさ、恐るべき貧困にあえぐアフガニスタンの人々の映像を目にする。Anger (怒り)という言葉に、一文字加えるだけで、danger (危険)になる。その言葉の不思議が現実となって目の前に繰り広げられたのだ。 なんという恐るべき取り合わせだろう。加害者の貧困と被害者の富裕。近代建築のビルの崩壊と共に亡くなった人々と、餓えと絶望の中で亡くなっていく人々。この二極の苦しみは、まるで円の中で白と黒の勾玉が二つで一つを成す陰陽の紋様、太極の図のようにぴったりと合わさっている。 あのテロ攻撃を見て世界中の人が、それぞれに感じ、一人一人の思いを持った。怒りがわいた人、報復を誓う人、悲嘆に暮れる人。荒ぶるような、それぞれの感じ方の中にこそ、私はメッセージがあると思う。人によって感じ方が違うのは当たり前なのだ。それは、一人一人のために向けられたメッセージなのだから。そして、そのメッセージの意味を、答えを、人は一生捜し求める。何故、苦しむのか、何故、罪も無い人や幼い子供が死んでゆくのかと。子を失う悲しみを何故多くの母親が味わわねばならないのかと。こうして、人類は永遠に問いつづける。それこそが、私たちの存在なのかもしれない。問いつづける存在こそが、私達なのである。それこそが、人生というものだ。世界中の人が、様々な場所で、今問うている。荒ぶる魂を鎮め、時には甘やかし、磨きながら、問い続けよう。生霊になるほどの怒りの行方はどこにあるのか、そして、この世を生きていくというのは、どういうことなのかと…。 |