| その泉が涸れないように 〜「海からの贈りもの」より〜 |
| 「与えるのが女の役割であるというのなら、その泉が涸れてしまわないよう、女もまた満たされなければならない」 これは、アン・モロウ・リンドバーグの「海からの贈り物」という本に書かれた言葉である。この本が最初に訳されたとき、著者名は「リンドバーグ夫人」となっていた。落合恵子さんが新たに訳した本では、彼女自身のフルネームで出版されている。たしかに、「翼よ、あれがパリの灯だ」という言葉で有名なリンドバーグの夫人ではあるが、実は彼女自身も北大西洋の横断調査飛行に加わっている。長男が誘拐され死体で発見されるという、女性として、母親として、最も大きな試練を味わった彼女だが、五人の子供を育てると同時に、物を書く人でもあった。海岸で拾ったり集めたりした貝に寄せて、女性のさまざまな問題や生き方に対する考え方を綴ったこのエッセイは一九五〇年代に書かれたにもかかわらず、今でも多くの女性の間で、それも年代にかかわらず大きな同意と共感を持って読みつづけられている。 彼女は、このエッセイの中で家族から離れて、たった一人で島に行き浜辺の小さな家で二週間を、ひとりで(後半は妹さんと)過ごす。コネティカットに住んでいた彼女の忙しい日常が時折り顔を覗かせるが、ひとりになった彼女は色褪せたストローバッグにいろいろなものを詰め込んで海辺へ行き、なにもせずにあるがままでそこに横たわる。それぞれの章は、「にし貝」「つめた貝」「ひので貝」「牡蠣のベッド」「あおい貝」などの貝を一つずつ取り上げて女性としての日々の暮らしと、そこから生じる問題や生き方のヒントが書いてあるが、中でも私が一番心を惹かれたのは「つめた貝」の章である。そのはじめにこう書いてある。 「…わたしたちは結局、みな孤独である。ひとりでいるということを、もう一度はじめから学びなおさなければならない」 ひとりではいられない、という人がいる。ひとりでは何もできない。レストランや喫茶店にひとりでいけないという主婦もたくさん知っている。実は私もかつてそうだった。ひとりでは何もできず、夫を頼りにしている主婦だった。新幹線の切符も買えず、旅行のプランすらも立てられなかった。ひとりでコーヒーを飲みにいくことすらできなかった。「できなかった」というよりは、する機会がなかったから、「しなかった」という方が正しいのだが。 けれども、いつのまにか私は何でも自分でするようになった。パソコンの修理やインストールも自分でやる。ひとりで飛行機に乗って海外にも行く。自分で旅行会社に行って、ホテルの予約とエアーチケットをとり、ひとりで何時間も飛行機に乗り、海外でもひとりでレストランに行く。知らない異国の、角を曲がったらどこにでるのかもわからない街をたったひとりで歩く。 それで寂しくないかと聞かれれば、それは寂しいのである。しかし、ひとりの自由さ、気楽さもやっとわかるようになってきたのかもしれない。たったひとりで自分の内面へ意識を集中させることで、いつのまにか「内なる声」が聞こえることがある。それを聞きたくて、私はまたひとりの時間を創りだす。 何故ひとりになるのか アンはこう書いている。 「女は特に、一年のある時期、また毎週、毎日の一部をひとりで過ごすべきだと思う」 ここで問題なのは、女がこの「ひとりになる必要」というものを認めていないことだと彼女は述べている。たしかに、主婦であれば家事や子供の世話に追われているうちにひとりであることへの必要性を忘れてしまう。独り身だとしても、仕事をして家に帰って、テレビをつけて夕食をとり、お風呂に入り、寝るというルーティンの中で、自分の本質をみつめる時間というのはなかなかとれないものである。私が彼女の言葉で驚きとともに深く同意したのが、「どうすれば魂を静かにできるか、ということである。つまり、どうすれば魂を育てていけるかということである」という箇所なのである。 「魂を育てる」 これなのだと思う。 この本を私に紹介してくれたのは、、自分で起業し社長になった女性だが、彼女は仕事先の人といるときに、美しいものやかわいらしいものを見ても「まあ、かわいい!」という言葉や感情を迂闊には出せないと言っていた。男がそれらしい言葉を言えば、繊細な感性を持った人だと言われるが、女性がそれを仕事の場で言えば、マイナスのイメージを与えかねないというのだ。仕事相手の男性が本当にそう受け取るのかどうかは、私には正直わからない。しかし、アンが書いているようにフェミニスト運動のおかげで女が手にしたものは多いが、反面で「女の精神が渇きつつある」というのはとてもよくわかる。勝ち得た権利は多いがその使い方を探している、と五十年前に彼女が書いていたことを、今の女たちが見つけたかといえば、私にはとてもそうは思えない。同じ世代で社会に出ている女性たちの渇きようを見ていると、アンが「女はこのままでは、粉々にされてしまう」と書いた言葉が未だに充分通用することに、疲労感に近い眩暈を感じる。女たちが家にいた頃よりも、外に出るようになってからの方が、自分はなくてはならない存在なのだという感覚は薄れたようにみえる。だからこそ、ひとりの時間を求めなければならないという言葉が重みを増す。ひとりになることは、自分の内部に目を向けることである。おもしろいことに、アンは男もまた、それをする時にあると書いている。成熟のために…。 孤独であっても、ひとりでいられるということは、男だろうと女だろうと、魂を育てるとっておきの手段なのである。今のコミュニティの中で、たとえ一時間でもひとりで内面を見つめることがどんなにむずかしいか、テレビ、電話、メールのある生活の中で、常に人を求め、依存に近い未成熟な関係は、一つ歯車が狂えば簡単に破綻を来たすだろう。成熟とは、簡単に言えばいかにひとりでやっていけるかということだと思う。自分を自分で愛してやることができることでもある。自分を好きだというのと、きちんと自分の面倒を見ることができるのとは違う。そして、文頭の言葉に戻るが、女が涸れてしまわないためには、ひとりになって魂を育て、内面からわきあがる泉でもう一度自分を満たすことだと、アンは私たちに教えてくれているのだ。 |