| エロスとタナトスへの衝動 〜トークイベント「病むことの力・癒えることの力」より〜 |
| タナトスという言葉は、ギリシャ神話でいうと「死」である。ここで言うタナトスは「死へ向かう衝動」、または「破壊的本能」のことで、これにたいするエロスは、従って「生へ向かう衝動」となる。このタナトスとエロスは、表裏一体となって存在しており、エロスの裏側には必ずタナトスがあるそうだ。 二十世紀末に起きた阪神淡路大震災、オウム真理教事件、酒鬼薔薇事件、少年のバスジャック事件、そしてあの爆破テロの流れの中で、今の若い人たちは、たとえ恋人と楽しく過ごしつつもタナトスを感じ、これからの世界をどこかで楽観していないのではないか、二十一世紀が始まったばかりの今、人類がこぞってタナトスの方へ、つまり自滅する方向で一体化しているように感じる、とその不思議な老人は語りはじめた。八十歳の精神科医、加藤清さんと小説家の田口ランディさんのトークイベント「病むことの力・癒えることの力」は、そんな加藤氏のやや悲観的ともいえる見解から始まった。 この加藤清さんというお医者さんは、京都大学でかつてLSDを使ってサイケデリック療法を治療に使ったり霊能者と組んで治療をしたり、沖縄のシャーマンの研究もされ、ご自身もこの世とあの世を自在に行き来しているようなハイパーな伝説の人である。 エロスとタナトスの話の中で、ある患者さんの例があった。加藤氏が二十年間治療していた分裂病の男性の母親から、この長男をなんとしても結婚させて、その仲人を加藤氏に頼みたいと遺言があったそうだ。それで、治療の効果もでてだいぶ良くなった頃、たまたまカトリック神父の紹介で一人の女性とお見合いをすることになり、めでたく結婚式を行なった。ところが一週間後、父親から息子が家に戻ってきた、と電話が来た。部屋に引きこもってずっと寝ているという。加藤氏は「危ない」と直感で思ったそうだ。すぐに父親に見に行くように言うと、ガスの匂い…。そのご長男はガス自殺をしていたのだった。結婚指輪ははずしてあったそうだ。そして、結婚式をした同じ教会でお葬式が執り行われた。その後、亡くなった患者さんの父親と弟が喧嘩をし、その弟が家に火をつけた。さらに、その父親も自殺をしてしまった。このようにエロスも危険なのだという。家族の一人がタナトス、つまり死の方にひっくり返ってしまうと、周りも巻き込まれる。そのきっかけになるのがエロスなのだ。これを受けて、ランディさんは「エロスとタナトスがひっくり返って、ドミノ倒しのように人が死にますね。うちもそうでした」とご自分の経験を語る。 私はこのとき、「うちもそうだった」と心の中で思った。人がバタバタと死んだわけではないが、父が亡くなったあと、しばらく悪いことが連鎖のように続いたのだ。 「だから、小説が書けるのや。あんたも死んでるのや」 加藤氏はランディさんにそう言っている。「あれから死ぬことを考えだしました。あたしも死んだのかもしれない」とつぶやくランディさんに、「それが病む力や。病む力がなければ創造なんかできない。死や悪魔の協力がなければ書くことなんかできない」と加藤氏は言い放つ。私はそれを聞きながら、私自身もここ数年、まるで死にながら生きていたようだったと思う。タナトスに向かっていたのである。しかし、だからこそ毎月こうして書いている。何かに突き動かされているように、書くことに執着し、こだわっている。 カルマを熟させるということ お二人の話はその後、カルマ(業)にも及んだ。なにしろ加藤氏は京大でいきなり運命の勉強をしろと教授から言われた人だ。カルマは前世にもよるし、親のカルマも受け継ぐから、人間の自由意志ではどうにもならないものがあるという。しかし、カルマを円熟させることこそが癒しであるという。それは、自分のカルマを自分らしく生きていく、そして、自分のところに落ち着くということだそうだ。私たちは、カルマを悪いものとして捉えているが、熟させることで天に抜けてゆくというのだ。加藤氏は、全人類が業熟体へ行くことを願っていると言い、ランディさんは、自分に正直になったとき、タナトスとエロスがぐるんとひっくり返ったような気がすると話していた。 私は今物を書いている。まさにこれが私のカルマだろう。書きたい気持ちに憑かれていくうちに、どんどん病んでいく。病んでいるからこそ書けるとはいえ、タナトスへの強い衝動に駆られはじめると、今度は書きたい衝動どころか、病の中でもがき苦しむようになる。この世から色が消え、音が聞けなくなり、人が団子になったように群れてきて、一人一人の顔が見えなくなる。タナトスがあまりにも強まると、ビルを見て飛び降りていく自分のイメージを持ったり、線路を見ると異常にヒヤッとしたり、刃物が怖くて見ることが出来なくなったりする。そうすると、さすがに自分でもこれはいよいよバランスが崩れていると思い、しかたなく眠ったり身体を横たえたりして癒しの方向にもっていく。身体が休まっていくうちに、まず色が見えてくる。電車の窓から突然光とともに色が鮮やかに見えるのは、病んでこその新鮮さである。そのうちに、音が心に突き刺さらなくなって、自然に耳に入りだし、日本語の歌の歌詞が心地よく感じられてくる。どんどん癒えていく感覚を感じ出す。すると、最終的にテレビや映画に出てくる美しい男がガンガン目に入るようになる。勉強までしたくなる。タナトスへの衝動はすっかり反転しているのだ。病んでいる間というのは、やはり苦しいから、なんとかしようと色々なことをする。本を読んだり、良い波動を出している人に会って話をしたり、とにかく出来る限りのことをする。すると、深い闇の中に一条の光が射すとはまさにこのことかと思うような、天啓がおこる。それは、えもいわれぬ快感で、これこそが癒えていく力なのだと実感する。癒えながら何かが見えたり、つかんだりしながら一つ上にのぼっていく。病んでいるくらいの方が感覚が冴えていいものができたりするのも事実だ。そして、その過程から得たものは、たとえば霊位をあげるというような、スピリチュアルな体験だったりする。 沖縄では霊位の高い人がカミダーリという病気になって、カミンチューというシャーマンになるという。病むということは変容の一つの形らしい。病むというのは、肉体的な病だけではない。例えば貧困や戦争も病なのである。加藤氏が本でも書いておられるが、精神の病だろうが、文学の悩みやアーティストや宗教者が悩んでいるものも皆一つ、それは「創造の病」であり、なにかを作り出していくステップであるという。確かに、癒えてゆく途中で何かがわかることがある。ああ、そうか、と私はここでまた一つ気づく。この「わかる」ということこそが、自分の場所に落ち着くこと、つまりカルマを熟させることではないだろうかと…。 |