ここ数年、仕事のことや家庭のことで悩むことが多く、朝起きると一番に不安や嫌な感情が押し寄せてきて、私はいつも心の中に鉛を抱えているような気分だった。この鉛は何だろう、この鉛さえ無くなれば、私は幸せになれるのに…。どうやったらこの鉛を無くして幸せになれるだろう。
そう思いながら、いつもあがいていた。なんとか、この鉛を少しでも軽くすることはできないものかと、それこそ毎日私はその方法を探していたような気がする。自分の鉛の原因は何か、と問いただすところからやっていたから、いつも疑問だらけだった。しかし、過去を振り返ってみると、その重さは違いこそすれ、常に一つの鉛が無くなっても、また新しい鉛がいつも私の心の中にちゃんと居座っていたのだ。
生きている限り、この鉛が無くなることはないのだろうか。そんなことに突き当たった。この鉛のおかげで、私はそれまで読んだこともないジャンルの本を読んだ。また、数々の人とも出会った。それぞれの人が、それぞれの形で私に手を差し延べてくれた。苦しい気持ちをぶつけるように文章を書かずにはいられなかった。そして、絵を描く喜びも知った。
もし、この鉛が無ければ、私はそれらのことを決してしなかっただろう。そして、苦しんでいる人の気持ちなど、全くわからなかっただろう。この鉛が無ければ…。
そんなとき、ある方から手紙をいただいた。随分前に私が書いた文章を読んで、そのあと住所を調べて、わざわざ手紙を書いて下さったのだ。それは、私にとってはまるで天からのメッセージのように思えた。その方も文面から苦しみや痛みを味わっている人に思えた。私の書いたものにどこか共鳴してくれたのは、私が苦しみや痛みを感じてきたからこそなのだということを、手紙という形で教えてくれたのではないかと思った。
苦しみや痛みを感じ、鉛を抱えて生きるなんて、嫌なことには違いない。けれども、もしかしたら、それも能力の一つだとしたら、確かに私は随分我慢強く、その鉛を抱え続けてきたものだと思う。そして、それがわかるからこそ、ものを書き、やはり鉛を持った人が共感してくれるのだとしたら、かすかだけれど、意味と使命が出てくるような気がしたのだ。
ふと、何も見えない闇夜の中で、道を何かに照らされているような、そんな不思議な気持ちになった。鉛だと思っていたものは、実は私にとっては大きな宝なのかもしれない。そう思ったら、やっと鉛は少し重さと色を変えてくれた。今も、私の心の中で、どっしりと腰を据えてはいるけれど…。 (2002.05.10)
心の鉛が宝物に変わるとき