母の介護を手伝ってもらっているHさんは、ときどき不思議な声が聞こえるんだそうだ。私の友達の友達で、やはり突然不思議な声が聞こえてきた人の本を読んだとたんに、彼女もそうなった。こういうのをチャネラーとでもいうのだろうか。それが一体何なのかはともかく、その内容はなかなか理にかなっているのでおもしろい。
その彼女がある日、私が出かけようと玄関先に立った瞬間、突然聞こえたのが、この「自分を責めるな、サビがつく」という言葉だった。もしかしたら、これはいつも近くで私のことを見ている彼女の潜在意識から出た言葉かもしれない。だから、そのときは「そうね」と言って、適当に聞き流していた。
そのお告げのような言葉の閃きは去年の初夏だったから、もう一年近くが経とうとしているときに、私はある本で自分を責めること、自己憐憫、他者憐憫をすると鬱になると書いてあるのを読んだ。なんとなく、頭の片隅にHさんの言葉がこびりついていたので、「ああ、ここにも書いてある」となぜかまた出会った言葉のような気がした。
その本によると、たとえ車で人を轢いてしまったとしても、その人は自分を責めるべきではないというのである。つまり、「その人の行動」と「その人の価値」はまったく別で、分けて考えるべきだというのだ。私達は神様ではない。完璧に行動できるのは、神様以外にはありえないのだから、少々のへまをしようが、大きなミスをしようが、私たちは自分を責めたり、罪悪感を抱いたり、自分には何の価値もないなどと思う必要はないのだ。
それを私は何か事が起こるたびに、まず刃が自分に向かい、自分が悪い、自分ができないから情けないと思い、さらには自分を憎むようになり、自分自身から逃れたい、つまり死にたい気分に年中とりつかれるという有様だった。自分から逃れるなどというのは、こんな無理難題はないのであって、そのフラストレーションをさぞかし周囲にまき散らしていたことだろう。
自分を責めるというのは、実は大いなるうぬぼれであり、自己を嫌悪するのは、自分を愛しているあまりの憎悪なのだということに私はうすうすわかっていた。私の描く私自身はもっとずっと素晴らしいはずで、こんなはずではない、だから自分が嫌だった。なんとも不遜な考えだ。それに気づかずに、「自分が嫌い」などと言っていたのが、今では恥ずかしい。
恥ずかしいけれど、そんな自分を責めるのはもうやめよう。なにしろ、行動と私自身は別なのだから。そして、Hさんの言葉のように、自分を責めていてもいいことは何もない。せいぜい心にサビがつくのが関の山である。今は毎日せっせとサビ落としの日々である。それでもうっかり自分を責めていることに気づくたびに、呪文のように唱えている。
「自分を責めるな、サビがつく」
(2002.05.28)
自分を責めるな、サビがつく