ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ

前から見たいと思っていた映画「ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ」をやっと見た。これは久しぶりに私のツボだった。ヘドウィグは東ベルリンで育ったハンセルという青年だが、性転換手術をして、アメリカ兵と結婚してアメリカに渡る。

この不思議なタイトルの「アングリーインチ」というのは、その手術の失敗の痕跡のことで、いつも彼には滑稽と悲しみがつきまとっている。裏切られ、落ち込んでも、しばらくするとまたしたたかに立ち上がる強さは、男の強さなのか、女の強さなのか、それともその両方を持ち合わせているのだろうか。

わたしはゲイの話に弱い。なぜだろう。男がものすごい化粧やカツラをつけて、女装している姿は道化のようで、どこか気になる。大きな存在感がありながら、強い自己否定を感じて、おかしいのに痛々しく切ない。この映画の脚本、監督、そして主人公のヘドウィグを演じたジョン・キャメロン・ミッチェルは恐ろしくロックをロックらしく歌う。つまり、人生に起こったことが、そのまま歌になってほとばしるという感じだ。そして、何よりも彼の表情が千の言葉よりも、多くのものを語っている。

彼の生きるテーマは、“失われた半身”探しだ。ジョン・C・ミッチェルがプラトンの「饗宴」の舞台化したものを見たとき、その中の神話「愛の起源」が印象に残って、これを取り入れたそうだ。

昔、人には3つの性があった。男と男が背中合わせ、それが“太陽の子”、女と女が背中合わせ、それは“地球の子”、“月の子”は太陽と地球の中間…。それが神によって二つに切り裂かれ、人は失われた半身を探し、元に戻ろうとする。

この物語がヘドウィグによって、歌われ、彼自身の生き方も常に失われた片割れを探して、切なくさまよっている。私には、この感覚がよくわかる。孤独というものは、誰にも等しくあるものだと思っていた。けれども、その強さ、感じ方は人それぞれ…ということを最近感じ始めている。私の孤独を埋めるのは、失われた半身しかないと信じていた時期もあった。今でも、心の奥底ではmissing halfを探している。

けれども、最後にヘドウィグはメイクもカツラもつけない裸の姿で歩いていく。それは、人間は一人でも完成した姿なのだということなのだ。孤独はおそらく死ぬまでつきまとうだろう。たとえ、失われた半身が見つかっても…。もしかすると、片割れがない姿こそが、完成した人の姿なのかもしれない。つまり、孤独を抱えていることこそが、人というものなのかもしれない。       (2002.04.26)